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1199年、ローマ法王から正式認可されたチュートン騎士団は、テンプル騎士団にならい、 ドイツ人の修道騎士約600名で構成されました。 アッコン北東のシュタルケンベルク城を根拠地として聖地の回復に参加していましたが、 テンプル、ホスピタル両騎士団に比べてその勢力は小さいものでした。 1210年にヘルマン・フォン・ザルツァが総長に就くと、ハンガリー王の要請により、 トランシルヴァニアで異教徒と戦ってこれを平定、最初の騎士団所領を獲得します。 が、 ハンガリー王に拒絶されてこれを断念します。 1221年、改宗に対抗するプロイセン人へ第1回の東方十字軍遠征が行われます。 ザルツァは皇帝と法王の裁可が得られるまで動かず、組織を堅持しました。 1226年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は騎士団に帝国の象徴である鷲の紋章を許可し、 総長をドイツ諸侯に列することを決しました。 1228年、騎士団は東方の平定を開始、1230年にはクルム郡 (現ポーランド・旧名オストプロイセン)を騎士団領とし、 凄惨な戦闘を経て城を築きながら、1239年には北海に到達(現リトアニア)します。 ザルツァはこの間、騎士団を率いて1239年まで東方へ勢力拡大に努めました。 しかしその3年後、騎士団はロシアへ歩を進めるもペイプス湖での戦闘でロシア軍に大敗し、 加えてプロイセンの暴動蜂起により、12年間の戦闘による成果は水泡と消えます。 |