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ペイプス湖の悲劇から10年、プロイセンとリボニアから挟撃した騎士団は 1258年の大十字軍でケーニヒスベルク(現カリーニングラード)を占領、 1260年には現在のクールラント地方の制圧に成功します。 しかし程なく大きな反乱が起こり、騎士団は領地を大きく失います。 これによりローマ法王はキリスト教諸国に檄を飛ばし、兵と資金を結集させます。 1272年、増援された騎士団は長い激戦の末、1290年までに反乱を鎮圧します。 ところが翌年、今度はアッコン陥落により聖地での最終拠点を失ってしまいます。 これにより十字軍は存在意義がなくなり衰退していきます。 しかし、チュートン騎士団は東方十字軍の意義を失うことなく 15世紀までポーランド、ロシア、リトアニアとバルト地方を巡って 血みどろの戦いを続けることになります。 このフィギュアはケーニヒスベルクの旗を持って凱旋する、 コンラート2世総長の姿を再現したものです。 ドイツ諸侯に列せられる騎士団長に相応しい、豪華な装備と 清貧な修道会士に似つかわしくない派手な軍旗と紋章が目を引きます。 コンラートの名跡は最初に北海に達したKonrad I of Thuringiaに始まり、 1410年・タンネンベルク会戦以後の劣勢をひたすら防御に専心した Konrad VI von Erlichshausenまでおよそ200年にわたって襲名されました。 ドイツ騎士修道会はその後20世紀の2度にわたる世界大戦を経て、 今日に伝統が受け継がれています。 |
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